スペシャルインタビュー

第1回は、東京タワー建設をはじめ戦後日本の多くの大事業に携わった伝説の橋梁鳶・通称「不死身のサブ」こと黒崎三朗さんです。

「40メートル落ちて
『不死身のサブ』なんてあだ名が付いた」

もともとどちらかと言えば頭が文化系統なんだよ。子供の頃から短歌が好きで、本当なら物書きにでもなろうかって思っていた。
こう見えても、新聞なんかに短歌の投稿とかも、ずいぶんしたんだよ。
ところが、親父が飯の時にこぼすんだよ「せっかく若い衆が何十人も集まっているのに、後を継ぐやつがいない」ってね。
そんなに飯のたんびに言われると、こっちも仕方ないなぁって気持ちになるんだよ。
まぁ、小さい時から親父にくっついて現場には出入りしていたし、小学生の頃には300メートルの鉄塔にも登っていたから、俺がやってやるよって気になったんだろうね。
高校を中退して、親父の会社に入って本格的に鳶の仕事を始めたんだ。
でも、「俺なら、やれる」なんて気持ちが良くなかったのかな。
仕事にも慣れてきた18の時、ちょっと調子に乗っていたのかもしれない。水力発電所の建設現場で40メートル上からコンクリートの上に落っこっちゃったんだ。
まぁ、一気にずどんっと落ちたわけじゃなくて、しばらく鋼材のボルトに掴まっていたんだけど、ズルズルとそれが抜けてきて、最後は「おふくろや親父によろしくな」なんて言い残して落ちたんだ。
それで生き残ったんだから、「不死身のサブ」なんてあだ名が付いたけど、ちょっとカッコが付かなかったなぁ。
でも、それからだね、この仕事の本当の怖さを知ったのは。それ以来、実は高いところは嫌いなんだ。飛行機にも乗らない。あんなのが落ちたらって思ったら怖くて仕方ないよ。

「クレーンもヘルメットもなかったけど、
俺たちには誇りがあった」

東京タワーの現場に入ったのは23歳の時だったかな。国を挙げての一大事業とは言っても、今とはずいぶん違ったな。だいたいクレーンもなかった時代だから、1トンの鉄骨を8人ぐらいで運んで組んでいたんだからね。
特に東京タワーの場合、下のアーチの部分は四方から組み上げて最後に併合するんだけど、鉄骨の曲げが正確じゃないからズレが出るんだ。それをジャッキで押したり引っ張ったりして、なんとか組み上げたんだ。
当時の職人っていうのは、そういう技術を持っていたね。計算も正確じゃないし、加工の精度も低かったから、その分、現場での職人の技術が必要だったし、職人もその技術に誇りを持っていた。
だから、仕事上がりでも、現場の袢纏を着て自慢気に飲み歩いていたもんだよ。
ただ、そういう難しい作業を300メートルの高さでやるのは、並大抵じゃなかった。
地上では風速数メートルのちょっとした風も、上では10メートル20メートルの暴風になっている。そういうところでヘルメットも命綱もなしでやっているんだから、今じゃ考えられないね。
その後も、関門橋や、明石海峡大橋、レインボーブリッジと、いろんな現場に出向いた。現場が変わるたびに、あるいは同じ現場でも、仕事が進む内に、どんどん新しい技術や新しい機械が導入されて、鳶の仕事もどんどん変わっていったけど、俺たちが作っているんだっていう誇りだけは、今も昔も変わらないと思う。

「KURE 5-56 を知ってから、
ずいぶん楽をさせてもらった気がする」

進歩と言えば、KUREの5-56 を知った時は、世の中、進歩したもんだなぁと思ったよ。こんな便利なものがあるんだってビックリした。
あれは利根川大橋のボルトの締め直しの時だったかな。鉄橋のボルトっていうのは、もうしっかり錆び付いてしまって、これを回すのが本当に一苦労で、職人泣かせだったんだけど、KURE 5-56 を吹きかけて一晩置いておいたら、簡単にクルクルッと回るんだよ。
ずいぶん仕事が楽になったし、本当に便利に使わせてもらったよ。
それと道具の手入れだね。道具は職人の命だから、とにかく大切にしていた。それまでは、いつも油を塗って丁寧に整備していたんだけど、それがけっこう大変でね。KURE 5-56 を使うようになってからは、手入れも簡単だし、油みたいにギトギトしないから、綺麗に仕上がるんだ。
いろんなもんが出ているみたいだけど、俺たちの間では、ほとんどKURE 5-56 を使っているんじゃないかな。

「時代が変わっても、
職人には無くしちゃならないものがあるんだ」

時代が変わって、鳶の仕事もずいぶん変わってきた。設備も機械も良くなって、仕事もしやすくなったし、何より安全になった。
それでも、現場を支えているのは俺たち職人なんだよ。そのことの誇りを忘れちゃダメだ。
どんな時代になってもKURE 5-56 みたいに必要なものがある。俺たちの仕事で言ったら、それは現場の誇りだな。

Profile

黒崎三朗

黒崎建設株式会社 取締役会長 黒崎 三朗(くろさき さぶろう)
1934年東京都生まれ
17歳で橋梁特殊工となり、東京タワーをはじめ戦後日本の代表的な橋梁工事のほとんどに関わる。
橋梁特殊工の育成と地位向上を目指す「東日本橋梁鉄骨事業協同組合」の設立に尽力し同組合専務理事を務める。
その後、「日本橋梁鉄骨事業協同組合」の理事長を歴任。
2004年、日本建築学会文化賞を受賞。

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